伊那節 [伊那町調](伊那市)
長野県の南半分の伊那谷は上伊那、下伊那と分類されますが、広く歌われてきた《御岳/御嶽(おんたけ)、《御岳山(おんたけやま)》《御岳山節》と呼ばれる盆踊り唄、酒盛り唄があります。御岳(御嶽)とは長野・岐阜県境にそびえる3,063mの霊峰。上伊那を中心に《御岳》

伊那市街地

が広く歌われるようになると、大正時代に入り《伊那節》と改称して、それが広まっていきました。やがて、伊那市で最もよく歌われているのは伊那町調の《伊那節》です。

唄の背景
御岳から伊那節へ
《御岳》というと、

〽︎わしが心と
 御岳山の 
 峰の氷は 峰の氷は
 いつ溶ける

という歌詞が元唄として知られています。ところが、古い歌い方の《御岳》は、
〽︎御岳山の 
 峰の氷は 峰の氷は
 いつ溶ける

という775調を元唄とするものが母体であったようです。下伊那などでは無伴奏の素朴な盆踊り唄として残されています。従って、7775調の甚句形式となって歌われているものの第1句目の7文字「わしが心と」の欠損の形式で、775調子は古調の民謡に多いパターンです。むしろ、古調の「御岳」に7文字を付加したものかもしれません。
なお、この《御岳》と同系統の民謡は、長野以外でも愛知、岐阜、山梨に伝承があるようです。
ところで、伊那と木曽とは急峻な中央アルプス(木曽山脈)に阻まれ、行き交うことが難しい地域でした。そこを結ぶルートとして、江戸時代、木曽郡日義村の古畑権兵衛という牛方が、元禄9年(1696年)に、山道を切り開き、以降権兵衛峠として使われるようになります。それ以来、伊那の米が木曽に輸送できるようになりました。
宿場や茶屋における酒席の唄として歌われていた《御岳》を、権兵衛峠越えの馬子たちも歌うようになり、あいさつ替わりに「ソリャコイ アバヨ」といった囃子詞が生まれたといいます。「ソリャコイ」あるいは「ソレコイ」はもともと《御岳》のハヤシ詞にあるので、そこに「アバヨ」が付いたものでしょうか。


広く知られるようになったのは、明治11年(1878年)に、長野市において1府10県の共進会が開催されたおり、その余興として、西春近村(現伊那市西春近)の唐沢伊平治が《おんたけやま節》を長野市の権堂芸者に覚えさせて披露したことに始まるそうです。その後、木曽の人々が現行の《木曽節》である《なかのりさん節》を歌って人気が出ると、伊那の人々は、御岳が木曽のイメージであるので、《おんたけやま》については伊那の唄なのだから…ということで《伊那節》に改名したのだそうです。

正調の対立

大正時代に入ると、正調を競う三派の対立があったといいます。
昭和5年発行の「信濃民謡集」によれば、伊那節についてこんな記述があります。

いまは、東春近の飯島自得翁が本家正調なりと主張すれば、富縣村の普及會ではわれこそ眞の正調なりといひ、二業組合もまたこれに譲らない有様で、全國に知られた伊那節も地元では主張するものにして旣に三派鼎立である。従って本篇でも便宜上この三派を飯島派、普及會派、二業組合派と假りに名づけて取扱つた。もともとさういふ名稱が存してゐる譯ではない。[大日方利雄「信濃民謡集」1930年 pp.8-9.]

ここでは「飯島派」「普及会派」「二業組合派」の3派が対立したということが紹介されています。上伊那だけでも大同小異の「おんたけやま節」があり、「伊那節」と改名した地区が複数あり、現在でもそれぞれの伝承があります。

伊那町の伊那節
現在、よく耳にする伊那町の《伊那節》は二業組合派の節回しと思われます。伊那節保存につとめた鈴木繁重氏(初代伊那節保存会長)は、若い頃、実際に権兵衛峠を越えて米を運搬していたのだそうで、この唄のよさを広めるべく保存、普及に努められたそうです。ところで、小唄勝太郎や市丸の花柳界の御座敷唄調なものには、《二上り甚句》の三味線の手付けがされ、華やかで艶やかな雰囲気となっています。
現在、伊那地方はもとより県内各地でも盆踊りに《伊那節》は踊られています。その踊りは、昭和4年(1929年)1月に、上伊那二業組合連合会が郡内の花柳界で踊られていたものを、東京から花柳壽輔、花柳壽美両氏を迎えて踊りを統一したものだそうですますます盛んに歌い踊られるようになった《伊那節》について、昭和35年(1960年)には、伊那市内の伊那公園内に「伊那節発祥之地」のが建てられ、以来「伊那節まつり」が伊那節振興協会の方々によって披露されています。
なお《正調伊那節》と呼ばれることも多いですが、本LABOでは、いわゆる「正調」を被せた楽曲名がどれをさすのかが分かりづらいので、ここでは便宜上《伊那節》 [伊那町調]としておきます。


有料部分には《伊那節》 [伊那町調]と《伊那節》 [御座敷調]の楽譜が掲載されています