天屋節(茅野市)
茅野市では天然角寒天作りが古くから行われてきました。寒天といえば「ところてん」などに加工して食べられます。
寒天作りがこの地域の特産になったのは、冬の気温が低いことや、乾燥に適していたことなどが理由だそうです。寒天業が行われるのは12月中旬から3月くらいまでの約3か月の間だけです。この寒い時期に、原料であるテングサ等の海藻を臼で搗く時に歌われたのが《天屋節》です。
JR茅野駅前の寒天の里モニュメント |
唄の背景
寒天生産額第一位の信州ならではの寒天作業の歌
寒天製造の本場は関西です。茅野市で寒天作りが始まったのは、江戸時代の天保年間(1831~1845)、玉川村穴山(現茅野市玉川)の行商人・小林粂左衛門という人物が丹波(京都府北部)から寒天製造の技術を習得し、茅野の地に伝えたのだそうです。
まず、塩抜きをし、乾燥した海藻が信州に運ばれます。
ここで、洗浄となります。水にさらし、アクを抜きます。きれいになった海藻はブレンドされ、やがて釜で煮込みます。そして、のり状になったところで濾過し、ゼリー状に固まらせます。これをようかん状に切り分けたものが「ところてん」(生天)です。
これを屋外に出して、天日で干す「天出し」の作業を行います。これが当地域の気候にあっているといい、北に向けて凍らせ、南に向けて溶かすのだそうです。約2週間で水を抜きます。
これを更に「スカゴ」というざるに並べて自然乾燥させて、ようやく寒天が完成となります。
こうして製造される寒天は、健康食品としてだけでなく、細菌培養法の利用もあり、国際的にも需要があって、輸出も盛んでした。
こうした作業を行ったのが「天屋衆」とか「天屋さん」と呼ばれた男たちで、その作業の内、原料の海藻を水で洗浄する作業の際に歌われたのが《天屋節》です。
〽︎ハァードッコイショドッコイショと(ヨッ)
今搗く草は(ヨーイヨイト)
天に製してヨー
外国へ
(ハァドッコイドッコイドッコイ)
臼と杵で草を搗く作業唄
機械化による動力利用になる以前は、乾燥した海藻を洗浄するために、水に漬けておいたテングサ等を臼に入れ、杵で搗く作業だったといいます。そのため、海藻の洗浄作業を「草を搗く」と言われました。しかも、作業工程上、この草搗き作業は、寒い夜に行われたのだそうです。しかも1人の作業ではなく、複数人での作業であったために、杵を動かす調子を整えるために、歌のリズムが必要となったのです。そのため、この唄は《草搗き唄》とも言われました。
こうした作業唄は、調子がよく単純作業の連続を飽きさせずに行えるためでもあり、一口で歌えるような唄が歌われました。7775調の歌で、盆踊りや騒ぎ唄などの流用であったのは、他の仕事唄と同様です。
〽︎ハァー寒い風だよ 信州の風は
じわりごわりとヨー 身に染みる
下の句第3句目のあとに「ヨー」というリフレインが入ります。諏訪地方では「糸ひき唄」として歌われた「エーヨー節」がありますが、歌の構造としては同様の歌い方のように感じます。
この草搗き作業には、若い女子たちも手伝いにやってきて、《天屋節》の音頭を取ったものだそうです
〽︎ハァー天屋若い衆に 惚れるな女子
花の三月ヨー 泣き別れ
天屋衆は冬の約3ヶ月の間、各地から出稼ぎに来ていた人々でした。このような恋心を歌った歌詞には、そんな女子たちの思いが込められています。
草搗き作業が行われたのは明治期から昭和初期まででしたので、実際に作業しながら歌われていた時期はそれほど長くはなかったようですが、唄は大事に歌いつがれてきています。
地元では、元米澤小学校(現茅野市立米沢小学校)校長で、茅野市民俗資料館(現八ヶ岳総合総合博物館)研究調査委員会の委員長を務め、諏訪の民謡を研究されてきた五味元喜による採譜がよく知られています。これをもとにさまざまなアレンジがされてきました。ちなみに「日本民謡大観」中部篇にはご自身の演唱が収録されています。
民謡歌手では、軽快な三味線伴奏による鳴海重光、江村貞一の演唱やオーケストラ盤の中沢銀司の演唱によるレコード化が知られています。